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はじめての長崎[09] 城山小学校平和祈念館

2008.08.16 Sat


浦上川に架かる梁橋を渡ります。




この長い階段の先に城山小学校はあります。
その片隅に被爆した校舎が平和祈念館として残されています。






永井坂
永井隆博士の「この子を残して」の印税から基金をいただき植樹した桜の木があることから命名されました。
昭和24年2月に寄贈された桜は毎年春になるときれいな花のトンネルになり見事です。


長い階段を登ったは良いものの記念館らしきものは見当たりません。
城山小学校の校門は閉まっています。

校門の中に記念館らしき建物を見つけました。
校門は閉まっています。
しかし、横の通用口は開いていました。

「記念館には入れなくても、ちょっとだけ敷地に入ってみようかな。。。」






校門を入ってすぐに「少年平和像」があります。




少年平和像
原爆ですべてを失った本校児童が平和を願って立ち上がる姿をかたどったものです。製作者は富永良雄氏で昭和26年8月8日に作られました。モデルの少年は当時5年生で父母を原爆でなくしました。台座の「平和」の文字は当時6年生だった菅原耐子さんの書です。耐子さんは1年生の時に被爆しましたが奇跡的に助かりました。


ふと、記念館の方に目を向けると、受付に人影を見つけました。

「土日と祝日は、いつもは閉めているんですよ。」

「あ、そうなんですか。。。あの、入口だけでも、ちょっとだけ、覗かせてもらえませんか???」

「どこから(来たの)ですか???」

「東京からです。初めて長崎に来たものですから、色々勉強させていただこうと思ってあちこち歩いています。」

「土日と休みの日は普段は開けないのですが、予約があれば開けることに決めたのです。今日はその初めての日なのです。どうぞ、見学して行って下さい。」

と、優しい笑顔で迎え入れて下さいました。






そして館内の明かりをつけ、音響までセットして下さいました。






中には当時の貴重な写真や資料が大切に展示されていました。






息が苦しくなるような写真も沢山展示してありました。




「こちらにも来てください。」

「はい。」

小さな部屋に案内されました。
手のひら大の小さな写真が壁いっぱいに貼られていました。

「爆死した先生方です。みんな若いでしょう。男の先生はみな戦争に取られたので代用教員といって若い人が教えたんです。」

言葉を失いました。

「まだ、時間はありますか???」

「はい、大丈夫です。」

と答えると椅子を勧めて下さいました。
そして、16世紀にポルトガル人がやって来て以降の長崎の歴史を話して下さいました。
長崎が原爆の標的になってしまうまでの経緯も冷静に、そして客観的に話して下さいました。

そして「実は自分も被爆者なのだ」と教えて下さいました。
(奥様も被爆者なのだそうです。)

「被爆者のラストは同じです。皆決まっているんです。癌で死ぬんですよ。」
「私は7歳の時に爆心地から700mの所で被爆しました。たまたま防空壕にいたので、助かりました。母も同じところで被爆しましたが、その時は防空壕の外に出ていました。即死はしなかったけれど、10日後に亡くなりました。」

これまでずっと親切に色々お話して下さった方が、実はあの原爆の被害者だったなんて、ワタシは何か大変な秘密を打ち明けられたような気分になりました。

「ここに饅頭が1ヶあったら、どうしますか。今なら『1ヶしかないから分けましょう』となるでしょう。でも人は極限の状態に置かれたらそんなことはできません。そこにいる1番強い人だけが食べるんです。それが極限の状態なんです。」

「今でもサイレンの音を聞いたり、腐った臭いを嗅いだりすると、当時の事が一瞬のうちに蘇ってきます。」

「戦後は被爆者に対する偏見や差別もありました。被爆者は身体が弱いだろうと、就職も出来ず、結婚も出来ません。昔は年頃の娘を広島と長崎には旅行にやるな(被爆者の男性に見初められては困るから)と言われていたんです。」

「原爆の被害者なのに被爆者であることを隠して生きていかなければならなかった。あの時一瞬の内に死んでしまった方がマシだと考えた事もある。」

お話を伺っているうちに、悲しさや絶望感と共に、それとは何か違った気持ちも湧いてきました。

「あぁ、ワタシも遂に知ってしまった。それも原爆の証人から直に話を聞いたのだ。このことは絶対に忘れてはならないし、誰かに伝えなければならない。」

この方はきっと、すっかり忘れ去りたい、決して思い出したくない辛い過去の体験を見も知らない、今日初めて会ったばかりのワタシに話して下さったのです。

ワタシはその事を肝に銘じなければなりません。
きっと身を削るような思いで話して下さった事を、決して忘れてはならないのです。

別れ際に「今日は休みの日に開けた最初の日です。きっと何かご縁があるのでしょう。またお会いしましょう。」
と声を掛けて下さいました。

「今日は本当に大切なお話をどうもありがとうございました。どうか、いつまでもお元気でお過ごし下さい。」
こんなに心から言葉を発したのは生まれて初めてと思うくらい、祈るような気持で伝えました。




本当に名残り惜しい気分で記念館を後にしました。
学校の敷地内には大勢の見学者がガイドさんとともに集まっていました。

「この見学の人達のお陰で会えたんだ。」

ワタシは今日の、この巡り合わせに感謝しなければなりません。




(この稿は東京に戻ってすぐに書きました。お話を伺う際に、メモを取ったり録音等はしておりませんので、聞き間違いや記憶間違いがあるかもしれません。何卒ご了承下さい。)



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Theme:国内旅行記 | Genre:旅行 |
Category:JUL2008 長崎 | Comment(2) | Trackback(0) | top↑ |

はじめての長崎[08] 長崎原爆資料館とその周辺

2008.08.16 Sat
さて、2日目です。




ホテルを出た途端に激しい勢いで降られましたが、築町で乗り換えをする頃には雨は止んでくれました。




浜口町で下車します。




「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」です。




昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎市に投下された原子爆弾は、一瞬にして都市を壊滅させ、幾多の尊い生命を奪った。たとえ一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない心と体の傷跡や放射線に起因する健康障害を残した。
 これらの犠牲と苦痛を重く受け止め、心から追悼の誠を捧げる。
 原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う。
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館







直径29mの水盤は、被爆した多くの方々が水を求めたことから配置されました。入口から水盤を反時計まわりに進むことで、心を落ち着けていただくことを意図しています。








入口です。



至る所に水が配されています。




12本の光の柱が立つ「追悼空間」です。
奥の棚には戦没者名簿が納められています。






名簿棚
原爆死没者のお名前を記した名簿が納められています。
この名簿棚の方角には原爆落下中心地があります。







ここから250m先が原爆落下中心地です




次に「長崎原爆資料館」を訪れました。
(資料の撮影は不可でした。)
「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」のすぐ隣に位置しています。




広島に原爆が落とされた3日後の1945年(昭和20年)8月9日、長崎に第2の原爆が落とされた。原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられ、8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空軍司令部野戦命令17号において、小倉を第1目標、長崎を第2目標として翌9日に投下することが指令された。この日、ソ連が日本に宣戦布告した。9日、B29ボックス・カーは小倉上空に達したが、前日の八幡爆撃による煙やもやのため投下を断念、第2目標の長崎に向い、同日11時2分、原爆を投下した。
(長崎原爆資料館HPより抜粋)





「平和を祈る子」の像です。
原爆落下中心地碑に向かう途中で見かけました。








下の川(爆心地付近)の惨状
この下の川が流れる松山町(向かい側)は、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
当時この町には、約300世帯 1,860人余の一般市民が生活していた。松山町の上空約500メートルで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の球となり、それより生じた数百万度の熱線と放射線と巨大な爆圧は、あらゆるものを一瞬にして破壊し焼き尽くし汚染した。
町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。壊滅した松山町は想像に絶する焦熱地獄と化し、惨禍の跡は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、まさに地獄の終えんを思わせるものであった。
また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した。
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨禍が地球上に繰り返されないことを願って、この地に碑を設置するものである。
昭和61年8月
長崎市
(長崎国際文化会館)





「原爆落下中心地碑」です。
恐らく慰霊祭と思われる式典が営まれておりました。

原爆落下中心地碑
当時この原爆落下中心地公園一帯は地元有力者の別荘と庭がありました。中心から1km以内の死亡率は実に88%、この年の暮れまでの統計によれば、73,884人が死亡、74,909人が負傷しました。最初は昭和20年10月に爆心を決定した文部省の調査団によってスレート製煙突の破片に消し炭で「爆心 centre」と書かれた標識が建てられ、その後何度か木柱で建替えられました。戦後一帯が公園として整備された際、正式に爆心地標識として立て直されました。
(長崎さるくコースマップ 浦上界隈2 被爆校舎で耳をすませばパンフレットより抜粋)







原爆搭載機長崎へ
長崎は深い入江に面した美しい港を中心に繁栄し、三方(東・西・北)を山に囲まれた複雑な地形とたたずまいの中に、ポルトガル船入港から原子爆弾投下に至る370有余年の歴史を刻み込んだ、九州最西端に位置する港湾都市であった。
太平洋戦争の末期、1945年8月9日早朝、西太平洋マリアナ諸島のテニアン基地を飛び立った原爆搭載機B29「ボックスカー」号は、第1攻撃目標の北九州の工業地帯小倉市上空は焼夷弾による煙のため視界がきかず、第2目標であった長崎へと方向を転じた。
長崎市上空に侵入した「ボックスカー」号は、雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所の巨大な工場群を発見、高度3万フィート(約9,000メートル)から投下した原子爆弾は、午前11時2分、長崎市の北部、松山町の上空約500メートルでさく裂した。

原子爆弾による被害状況
死者 73,884人 当時の推定人口約24万人
負傷者 74,909人
(※1945年12月末までの推定数)
罹災人員 120,829人 半径4キロメートル以内の全焼、全壊の世帯員数
罹災戸数 18,409戸 半径4キロメートル以内の全戸数、市内総戸数の約36%
全焼 11,574戸 半径4メートル以内、市内約1/3にあたる
全壊 1,326戸 半径1キロメートル以内を全壊とみなしたもの
半壊 5,509戸 半径4キロメートル以内を半壊とみなしたもの
焼失土地面積 6.7k㎡
長崎市(長崎原爆資料館)



次は、城山小学校平和祈念館に向かいます。

市立城山小学校と原爆被害
市立城山小学校は大正12年(1923年)、城山尋常小学校として浦上川を臨む小高い丘の上に設立された。その後昭和12年には当時九州随一といわれた鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が建設され、被爆前は児童1500人が通うマンモス校として知られていた。
しかし、爆心地からわずか500mという至近距離に位置していたため、被爆により強力な爆風と熱線の直撃を受け木造校舎は瞬時に倒壊全焼、鉄筋コンクリート校舎も大きな亀裂が入り内部は全焼、一部は焼失した。校内にいた教職員31名、校舎の一部を使用していた三菱兵器製作所勤務の職員や動員学徒ら111名、校区内の児童約1400名が死亡した。
戦後の昭和21年4月からは被爆による児童数の減少などにより一時休校が決定。
その3月に戦後初の卒業式が行われたが、卒業生は男子5名、女子9名のわずか14名に過ぎなかった。
(長崎さるくコースマップ 浦上界隈2 被爆校舎で耳をすませばパンフレットより抜粋)




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