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はじめての長崎[14] 門喜和(ときわ)で夕食(2回目)

2008.08.20 Wed


夕方ホテルに戻ってシャワーを浴びて、ホテル内の日本料理店で早目の夕食です。
あぁ、何と贅沢なのでしょうか。。。




カシスソーダです。




お通しはサトイモです。
皮のままって珍しい、ですよね???
歯ざわりが良くて、美味しいです♪




また、上品な器が登場しました。
(昨日は「呼び鈴」風でしたね。。。)




イカ明太です。
昨日とはちょっと違った感じです。
お酒は強くないのですが、酒の肴ってダイスキなんですよね。。。




刺身の盛り合わせです。
2日目なので、意識して違うお料理を出して下さっているのでしょうか???




「あっ、米ナス!!!」

ナス、ダ・イ・ス・キ。
しかも昨日より一品多いです!!!
ステキです。




昨日は追加注文して食べ過ぎましたし、今日は昨日より1品多いので追加注文は止めました。




焼きおにぎりに。。。




山葵と大葉と乗せて




出汁をたっぷりかけて、出来上がり♪




いい香り~♪




「ご馳走様でした。」
次回は絶対、アラカルトで注文しま~す!!!



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はじめての長崎[13] 長崎駅前と新地中華街

2008.08.20 Wed


長崎駅前の県営バスターミナルビルです。
明日の下見も兼ねてやって参りました。




「長崎物産館」の看板に釣られて入ってみました。
「バンザイ・サイダー」に「温泉(うんぜん)レモネード」。
かなり惹かれますが、荷物になりますしねぇ。。。






1階のバス乗り場に入ってみましょう。




博多、小倉、新川、佐世保・・・。
空港だけでなく色んな所に行けそうです。




明日はココから乗車します。




中華街に行ってみることにしました。
ラッピングバスならぬ、ラッピング路面電車です。
こちらは銀行のようですね。




コチラはおなじみ、カールです。




銀行系クレジットカード会社でしょうか???




横浜、神戸と並ぶ「日本三大中華街」の一つ、長崎新地中華街です。




何となくこじんまりとした雰囲気です。




道幅も狭くてコンパクトな感じです。




メインはちゃんぽん???




中華街を抜けた通りの先は「湊公園」です。
こちらも中華風???




ふと振り返ってみると、つりがね堂薬局の「つりがね」です。
ステキです。

今日は夕食後に散歩に出ようと思っています。
一旦ホテルに戻ります。



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はじめての長崎[12] サントス通りでトルコライス

2008.08.19 Tue


浦上天主堂を訪れた後、サントス通りに面したその名も「カフェ・サントス通り」で長崎名物トルコライスをいただくことにしました。

「サントス通り」
ブラジル・サンパウロ州の都市で南米最大の貿易港を誇る人口42万の港湾都市。
近年は、南米随一の観光都市リオに次ぐ観光地として脚光を浴び市の真上を南回帰線が通り、年中海水浴が楽しめるリゾート地である。明治41年に我が国の第一回のブラジル移民船「笠戸丸」が入港したのもこのサントス市である。
本県出身の移住者やサンパウロ州議員野田次平氏(佐賀県出身)からの申し入れにより、昭和47年 7月 6日姉妹都市提携を行う。昭和49年にサッカーの神様ペレ選手(当時サントスFC所属)より寄贈されたペレ杯を記念して、毎年『ペレ杯争奪少年サッカー大会』を開催している。
昭和52年に長崎市に「サントス通り」を設置。昭和63年には本市へ平和モニュメントが寄贈され、平成3年にはサントス市で原爆展が開催される。
(長崎市HPより抜粋)


ワタシは、この通りが教会(浦上天主堂)に続いていることにちなんで“サントス(諸聖人)の通り”と想像してしたのですが、見事ハズレました。
長崎市とブラジルのサントス市とは姉妹都市だったのですね。

現在長崎市は計6都市との間に姉妹(友好)都市の提携を結んでいるそうです。




カフェというよりは昔ながらの(???)喫茶店の風情と美味しそうなメニュー満載の看板に、吸い込まれるように入店しました。




窓側の席が空いていました。
向かいの建物はカトリック長崎大司教館です。




広々とした店内にはテーブルと椅子がゆったりと配置されています。




トルコライスとは?
いつ登場したの?誰が考案したの?など、実ははっきりないことが多いトルコライス。
名前の由来にも諸説あり、3種の料理を3色旗のトリコロールに見立てたとか、トルコの炊込みご飯がヒントになったなどさまざま。
トンカツ、ピラフ、ナポリタンの組み合わせが一般的だが、炒めたご飯に、パスタ、メイン料理一品がワンプレートに乗ったスタイルの総称として、店によっていろんな味が楽しめる。
多くは謎に包まれているが、長崎生まれの洋食として地元で愛されているのは事実なのだ。(るるぶ.comより抜粋)





トルコライスを注文すると、福神漬とラッキョウが登場しました。
パスタ部分より、カレー部分がメインなのでしょうか。。。
(「でも、こちらのお店はハヤシソースだったハズ。。。ま、いいか。」)




コンソメスープです。





「じゃ~ん。」



トルコライスが登場しました♪
横長のかなり大きめのお皿でその存在感をアピールしています!!
トルコライスは「ピラフ+ナポリタン+とんかつ」が定番らしいので、こちらの「ハヤシソースのかかったサフランライス+塩コショウのシンプルパスタ+ヒレカツ、さらに骨付きウインナー」は変則版なのでしょうか???




ただのオモシロ半分のジャンク的な食べ物かと(ホントにゴメンなさい。。。)思っておりましたら、意外な美味しさにかなりハマりました♪




こちら「カフェ」ですからね。。。
挽き立てコーヒー、ナイス♪でした。
(コーヒーはセットで付いてきます。)




「ご馳走様でした♪」
大満足の980円です。




浦上天主堂通りを通って松山町電停に向かいます。



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はじめての長崎[11] 永井隆記念館(如己堂)と浦上天主堂

2008.08.18 Mon



「如己堂」と併設されている「永井隆記念館」を訪れました。




如己堂(にょこどう)
長崎市名誉市民、永井隆博士の病室兼書斎。
島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻した。当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、『慢性骨髄性白血病、余命3年』と宣告された。
 その2ヵ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまった。
 しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆した。
 博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と名づけ、ここで2人の子どもと生活した。そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の尊さを発信し続け、昭和26(1951)年5月1日、43歳で永眠した。
 博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっている。
長崎市教育委員会





如己堂です。




「私の寝ている如己堂は、二畳一間の家である。私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とカヤノの住居である。」
「神の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」
(永井 隆著「この子を残して」より)
(長崎市役所HP永井隆博士より抜粋)







「帳方屋敷」(如己堂のところ)について
慶長18(1614)年、徳川家康が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外に追放、教会は全て破壊されてしまった。
 当時、長崎地方には約5万人のキリシタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗をせず、以後250年間潜伏した。
 この間、教義を伝えるための組織がつくられた。
 指導者の頭を「帳方」と呼び、四つの郷に「水方(洗礼を授ける役)」を一人ずつ、さらには、各字に「聞役(指令伝聞役)」を一人ずつ配置した。
 この組織をつくり、初代の帳方を務めたのが孫右衛門で、以後その子孫が帳方を継承し、7代目吉蔵(浦上三番崩れで入牢、殉教獄死)まで続いた。ここはその屋敷跡である。
 永井隆博士の妻、緑さんは、吉蔵の子孫にあたる。





「長崎市永井隆記念館」です。






陛下は、親しげに「どうです。ご病気は? どうか早く回復するように祈ります。」とのお言葉をたまわった。なんというありがたいお言葉だろう。
(「いとし子よ」より)

(一番左が昭和天皇です。)




永井隆記念館(如己堂)のある「サントス通り」をさらに進むと、丘の上に美しい建物が見えてきました。






東洋一の教会「浦上天主堂」
 慶応3年(18645)の浦上四番崩れによるキリシタンの流配(旅)から戻った浦上のカトリック信徒団は旧浦上村の庄屋宅跡を購入し、明治13年(1880)補修して仮聖堂としました。その後、明治28年(1895)主任司祭・フレノ神父はロマネスク様式で煉瓦造の聖堂建設に着手。大正3年(1914)献堂式が行われ、大正14年(1925)双塔の竣工をもって完成に至りました。当時の天主堂は「東洋一の教会」と称されていました。







昭和34年(1959)に再建された浦上天主堂(長崎教区カトリック浦上教会)です。






正面入り口の傍らには原爆で被害を被った像や煉瓦壁などが残されています。








浦上天主堂
昭和20年(1945)原爆により倒壊し、主任司祭の西田三郎神父らと信徒20数人が犠牲となったほか、当時の浦上カトリック信徒約12,000人のうち約8,500人もの尊い命が奪われました。昭和21年(1946)戦後の苦難の中にあって、生き残った信徒たちの手で木造の狩聖堂が建設され、昭和34年(1959)には現在地に鉄筋コンクリート造の聖堂が再建されました。





昭和56年(1981)ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が来訪され、叙階ミサが挙行されました。現在、聖堂入口両脇には「悲しみの聖母」像と「使徒聖ヨハネ」像が、被爆マリア像小聖堂には瓦礫の中から奇跡的に発見された「聖母マリア」像と、無原罪のマリア像復元模型(レプリカ)が安置されています。また、隣接する信徒会館内には破壊された左鐘楼の小鐘等が展示され、被爆の実相と平和の大切さを伝えています。






再建された浦上天主堂の丘の下に破壊された鐘楼の一部が残されています。




原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼
 爆心地より北東へ約500メートルの小高い丘の上に建つこの赤レンガ造りの浦上天主堂は、原爆により崩壊したが、被災前の天主堂は浦上の地に暮らしていたカトリック信徒たちが、1895年(明治28年)から赤レンガを一枚ずつ積み上げて30年の歳月をかけ建てた、当時としては東洋一の偉容を誇る大聖堂であった。
 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分。原子爆弾のさく裂により、天主堂はほとんどが破壊され、その後かろうじて残っていた堂壁や鐘楼も崩れ落ち、一部の堂壁だけが残った。崩れ落ちた鐘楼の一つ(重量約50トン)が現在もこの地に原爆被害の跡をとどめて眠っている。
 爆心地に程近い当地区は、17世紀初頭に始まるキリシタン禁令の時代からカトリック信徒の多いところであり、原子爆弾はこのカトリック信徒の聖地にさく裂し、約12,000名の信徒のうち約8,500名が犠牲となった。
 長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘版を設置する。
1987年(昭和62年)8月
長崎市
(原爆資料館)







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はじめての長崎[10] 平和公園

2008.08.17 Sun


この階段を登ると平和公園です。




「平和の泉」です。



のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとう油の浮いたまま飲みました
-あの日のある少女の手記から





平和記念像を目指します。
「平和の泉」から「平和記念像」の間には各国から贈られたモニュメントが多数立ち並びます。その一部をご紹介します。




「人生の喜び」
寄贈国 チェコスロバキア社会主義共和国(1980年)




「諸国民友好の像」
寄贈国 ドイツ民主共和国(1981年)




「平和」
寄贈国 ソヴィエト社会主義共和国連邦(1985年)




「乙女の像」
寄贈国 中華人民共和国(1985年)




「平和のマント」
ニュージーランド(2006年)




TE KOROWAI RANGIMARIE, THE CLOAK OF PEACE, IS A GIFT OF FRIENDSHIP TO THE PEOPLE OF NAGASAKI FROM THE PEOPLE AND GOVERNMENT OF AOTEAROA NEW ZEALAND, THE CITIES OF CHRISTCHURCH, WELLINGTON, AUCKLAND, NAPIER, WAITAKERE AND WHAKATANE.

THE CLOAK SYMBOLISES THE UNITY OF THOSE COMMITTED TO A PEACEFUL WORLD AND THE PROTECTION OF THOSE WITHIN ITS EMBRACE.

UNVEILED BY HON PHIL GOFF MINISTER FOR DISARMAMENT AND ARMS CONTROL 21 OCTOBER 2006

”クローク・オブ・ピース(平和のマント)”はニュージーランド政府、及びクライストチャーチ、ウェリントン、オークランド、ネイピア、ワイタケレ、ファカタネの6都市から長崎市に友好の証として寄贈された平和のモニュメントです。

”マント”は平和な世界に身をゆだねる人々の一体感と、それらを包み込み、守るものを象徴しています。

2006年10月21日
フィル・ゴフ軍縮・軍備管理大臣により除幕





冬を胸に 春は希望に満ちる




「長崎の鐘」

当時、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、多くの人々が働いていました。長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年にここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられたものです。
(長崎市役所HPより抜粋)





「平和記念像」

郷土出身の彫刻家・北村西望氏の作で、昭和30年(1955年)に完成。像の高さ約9.7m、重さ約30トンの青銅製で、「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と作者の言葉が台座の裏に刻まれています。
(長崎市役所HPより抜粋)





平和祈念像作者の言葉

あの悪夢のような戦爭
身の毛もよだつ凄惨悲惨
肉親を人の子を 
かえり見るさえ堪えがたき眞情
誰か平和を祈らずにいられよう
茲に全世界平和運動の先駆として
この平和祈念像が誕生した
山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美
全長三十二尺餘
右手は原爆を示し左は平和を
顔は戦爭犠牲者の冥福を祈る 
是人種を超越した人間 
時に佛時に神
長崎始まって最大の英断と情熱
今や人類最高の希望の象徴
昭和三十年 春日 北村西望




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